上古時代(年表はこちら)
私達先祖の古代人は農耕を主に、米、粟、麦を主食に、その間に野生の木の実や果実を食べていました。
菓子は果子という字がもとです。
今でも果物の事を”水菓子”と言ったりします。
菓子の始まりは、「古能美」(このみ、木の実)または「久多毛能」(くだもの、果物)であったろうと思われます。ですから、人工的に手を加えた今のお菓子の原形は奈良・平安時代に輸入された唐菓子に始まるとされる、という説が一般的です。
自然の果物に対し、こうした人工的なものがやがて「菓子」と呼ばれるようになりました。
ここで果物の橘を菓子の起源とする、菓祖神にまつわる伝説を紹介しましよう。
「垂仁天皇の頃、天皇は田道間守(たじまもり)に、常世の国(中国南部からインド方面)の不老不死の理想郷に行き、”ときじくのかぐのこのみ”(非時香具菓、今の橘)を求めに、帰化人の田道間守を遣わされたお話です。
艱難辛苦の9年間、シナとインドを経た末ようやく手に入れた木の実を持ち帰ったところ、すでに垂仁天皇は崩御され、嘆き悲しんだ田道間守は、垂仁天皇の御陵にもうでて、帰国の遅れたお詫びと約束を果たしたことを報告し、持ち帰った橘の半分を墓前に捧げ、その場を去らず、絶食数日、殉死した」といわれるものです。
後に、聖武天皇が「橘は菓子の長上、人の好むところ」と言われ、古代の菓子が「果物」の意味もあるところから、田道間守は菓祖神として各地の菓祖神社に奉られています。
唐菓子時代(年表はこちら)
唐菓子の輸入
奈良時代-600年代(推古天皇の頃)小野妹子や僧侶、学生などが遣隋使として大陸に渡り、さらに704年には(文武天皇の頃)遣唐使として粟田 真人が渡るなど、中国大陸との往来が盛んになり、大陸の文化が伝えられました。
その中で、8種の唐菓子(からくだもの)と14種の果餅(かへい)がその製法と合わせ伝られました。
唐菓子とは、米粉、小麦粉などを、色々な形に作り、水あめ、蜜、あまずらなどの甘味や塩味をつけ、また油で揚げたりしたもので、在来の「ほしいい」など単純な穀物の加工品に比べ味、形、加工方法など優れたものがあり、宮中や貴族社会から次第に一般へも普及していきました。
これらは祭神用として尊ばれ、現在でも神饌(しんせん)として一部の神社(熱田神宮、春日大社、下賀茂神社、八坂神社など)で見ることが出来るそうです。
砂糖の輸入
奈良時代-754年唐僧鑑真が入国のおり、天皇への献上品として持って来たと言われ、これは黒糖のかたまりだったということです。
その後、遣唐使によって中国から少量ずづ持ち帰られ、一部上層階級で珍重されました。
砂糖が菓子の製造に使われるようになったのは、鎌倉時代に入ってから、次第に砂糖の輸入が増えていきました。
国内で砂糖の生産が行われるようになったのは、慶長年間(1596年)に鹿児島の大島で、亨保年間(1716年)に、九州や四国で甘蔗が栽培されるようになってからです。
古くは菓子の甘味としては、あまずら(蔦の樹液を煮詰めたもの)やはちみつ、飴などが加工甘味料として用いられました。特にあまずらが利用されていたようです。
点心時代(年表はこちら)
お茶の輸入と普及
菓子の発展に大いに役立ったのが、お茶の伝来と普及があげられます。お茶が伝来したのは、奈良時代(聖武天皇の頃、729年)遣隋使により伝わり、宮中で引茶の会が催されたとありますが、本格的に茶を栽培し普及に力を注いだのは、1191年(鎌倉時代)栄西上人が宋から茶苗を持ち帰えったことに始まります。
茶を楽しむ茶道が始まり、太閤秀吉の桃山時代に至ってその極に達しました。この茶道の隆盛とあいまって、点心としてのお菓子が求められました。点心も中国から渡来したならわしで、食事と食事の間に食べるものや茶けをいいます。当時の点心は第1が羹類、第2がめん類、第3がまんじゅう類、第4がもち類でした。
まんじゅうは室町時代(1341年)に中国の林浄因によってもたらされたものです。現在でも奈良市にある林神社で毎年4月19日に饅頭祭りが催されています。
この時代に形の美しい、味覚的にも優れたお菓子が作られるようになり、現在の和菓子の源流となっています。
南蛮菓子時代(年表はこちら)
南蛮菓子の伝来
室町時代(1543年)ポルトガル船が種子島に漂着したのを始まりに、鉄砲 、キリスト教の伝来などともにカステラ、ビスカウト(ビスケット)、ボーロ、コンフェト(金平糖)、アルヘイト(有平糖)などのお菓子が伝来しました。
これらのお菓子は、原料や製法などの点で和菓子の製法に大きな変革をもたらしました。また、南蛮人によってもたらされた白砂糖はそれまでの菓子の味を一変させ、砂糖は製菓材料として重要な役割を担うこととなりました。
砂糖の製法が伝来し栽培が盛んになり、材料的にも技術的にもめざましい躍進を遂げました。
これらの南蛮菓子は、長崎を中心にして日本国中に、特にこの時期を境にして、力を持ちだした町人階級に広がり、日本化されて今日に伝わっています。
京菓子・江戸菓子時代(年表はこちら)
江戸幕府が開かれる依然の文化の中心地は京都であり、茶道とともに発達した点心は、一部の上流階級の菓子として独特の発展をしました。
饅頭に次いで天正17年(1589年)に練り羊羮が発明され、上生菓子や干菓子の打ち物(らくがんなど)が現れました。これらは「京菓子」と呼ばれて好評を博しました。
江戸時代(1615~)に入り、文化の中心地は江戸に移りましたが、京都からの伝来物は「下りもの」として尊ばれ、菓子類もその例に洩れませんでした。しかし、漸く亨保・安永・天明年間(1720~1780)頃になると江戸の個性も出始め、桜餅、金つば、大福餅、おこし、せんべい等の生活に密着した菓子が作られ武士や町人に歓迎されました。
文化・文政(1804~1830)以後の江戸は庶民の街として、今川焼、五家宝、紅梅焼、かりんとう等が、幕末には最中と切山椒が人気を集めました。
和菓子の殆どが江戸時代に作られ、今日の製菓業の基礎が作られました。
洋菓子輸入時代(年表はこちら)
明治時代以降のお菓子の流れ
明治時代になり、文明開化の名の下に外国の文化が自由に入り、お菓子の世界にも、洋菓子製造技能や洋風食材が導入されました。
相手先も、これまでのオランダ、ポルトガルからイギリス、フランス、アメリカに変わりました。
お菓子の呼び名も南蛮菓子、阿蘭陀菓子から西洋菓子、そして洋菓子となりました。キャンデイ、チョコレート、ビスケット、スポンジケーキ、クッキーなどガ輸入されましたが、当初は、バターやミルクといった食材に人々はなじめませんでしたが、次第に輸入が増えるにつれ、その製造に関心を寄せる者が現れ始めました。
日本で最初に製造された洋菓子は、明治8年(1875)のビスケットで、製造を始めたのは東京京橋にあった風月堂の米津松造氏です。
注:風月堂の几の中の字は、本来は虫ではなく、百と言う字です。
明治時代中ごろには、ビスケットの機械化が試みられ、街中では洋菓子店が出現するようになりましたが、我が国の洋菓子の製造に新しい次元を切り開いたのは、森永太一郎氏で、彼はアメリカで製菓技術を習得し、明治32年(1899)赤坂溜池に森永西洋菓子製造所を創立しました。
広さはわずか2坪であったそうです。キャラメル、ウエハウス、チョコレート、マシュマロなど各種の西洋菓子は、和菓子に比べ味や香りが濃厚で、その普及には並々ならぬ努力が払われました。
そして、その成功に刺激されて明治製菓、グリコなど等今日に続く多くの製菓会社が創立されていきました。
また、当時、洋菓子の発達に力があったのは、喫茶店「カフェー」の出現で、コーヒーを飲みながら洋菓子を食べるようになり、パイ、ショートケーキ、シュークリーム等が作られるようになり、洋菓子専門会社が設立されるようになりました。
戦前流行したタンゴの曲に「小さな喫茶店」という曲があるのをご存知ですか。コンチネンタルタンゴのスタンダードナンバーとして今でも耳にすることが出来ます。「~小さな喫茶店で二人が出会い、お茶とお菓子を前にして一言もしゃべらずに~」と、なんともほほ笑ましい光景が歌われています。
菓子大量生産時代(年表はこちら)
昭和14年(1939)、戦時経済が進む中、砂糖に公定価格制が実施され、翌15年には統制下に置かれることになりました。
菓子店の中には休業や廃業するものも現れ、菓子産業は低調の一途を辿るよりほかありませんでした。昭和20年(1945)には菓子の生産は殆ど休止状態となり、21年(1946)には全く停止状態となりました。
しかし、昭和23年ごろより占領軍からの食糧放出があって食糧事情が次第に改善され、菓子も次第に生産が戻ってきました。
そして、昭和24年(1949)のブドウ糖の統制撤廃、27年(1952)の砂糖の統制撤廃など、各種原材料の統制が解除されて、菓子業界も再び活気づいてきました。
特に景品付きの紅梅キャラメル、カバヤのキャラメル、フルヤのウインターキャラメルなどは、甘い味覚と楽しみに飢えていた戦後当時の子供たちに限りない夢を与えました。
今でも、年配の人はその頃のことを懐かしく思いだし、口の端に乗せることが多く見受けられます。
昭和も30年代になると、製菓機械やカカオ豆等の輸入が自由化もあって、チョコレート、チューインガム、洋菓子の生産が急増しました。
平和の象徴としてクリスマスケーキがもてはやされ、また冷凍ショーケースの普及とともに、ショートケーキ、シュークリーム、プリンと言ったよう生菓子が定着。また、百貨店の名店街ブームで、配送可能なバウムクーヘン、マドレーヌ、缶入りクッキー等が大流行し、時流に乗った多くの洋菓子店が企業へと成長していきました。
また、ビスケット、米菓、和生菓子等も順調な伸びを示し、菓子も漸く機械化による本格的な大量生産時代へと進みました。
消費層も主婦から若い女性へと広がり、需要の場もインドアからアウトドアへと広がり、今日すっかり私達の食生活に馴染んだものとなりました。
この大量生産は和菓子の世界にも否応なく影響を与え、今までの手作りの一方で、大量生産の時代に入りました。
国際化時代(年表はこちら)
我が国は、昭和39年(1946)にガット11条国、IMF8条国へ移行し、次第に国際化の波を受けることになりました。
菓子は、昭和46年(1971)チューインガム、チョコレート、キャンデー、ビスケット等すべての菓子が自由化となり、これまでの外国菓子の閉鎖時代から一転して国際化時代、激しい市場競走の時代を迎えました。
国民の消費水準は年々向上して、その内容も多様化し、多くの商品が出現しました。
こうした近代化の中で、機械生産が進む一方、化学合成品などの添加物の使用が普及・急増するなど食生活を巡る社会経済環境も大きく変化しました。
こうした製造過程の高度化に対応しうる人材養成を図るため、昭和41年(1966)に製菓衛生師法が制定され、また昭和50年(1979)には、菓子づくりの伝統的な技能と新しく開発された技術を結びつけるため、和・洋菓子製造技能検定制度が施行され、1級・2級技能士の資格が設けられました。
健康志向時代(年表はこちら)
昭和50年台(1975)に入ると、消費の多様化が進む中で、従来の美味しさ、食べやすさ、楽しさの他に、機能性を重んじる菓子が現れ始めました。
人々の健康志向への高まりと合わせ、健康を謳ったお菓子が増え、現在はかなりのウエイトを占めるようになってきています。
こうしたお菓子は大きく分けると次のようにみることができます。
- 機能を狙ったもの:のど痛緩和、口臭除去、虫歯予防、ダイエットなど
- 低カロリーを謳ったもの:マルチトールやソルビトール、キシリトールなど砂糖の変わりに糖アルコールを使用
- 栄養素を加えたもの:ビタミン、ミネラル、繊維などを強調
- 総合栄養的な商品:各種の栄養をバランスよく含んだもの
一方食生活の面では、生活の24時間化とあいまって、従来3食であった食事と間食との区別が小さくなり、食事における食べ物と菓子の区別がはっきりしなくなってきています。
また和菓子と洋菓子の境界も無くなるなど、食生活全体の中でお菓子の多様化が進んでいます。こうした食文化の中でこれからどんな新しいお菓子が生まれるでしょうか。
いつまでも”お菓子の世界”が私達に夢と安らぎを与えてくれるものであることを祈ります。
参考図書
- 食品ミニブックシリーズ「菓子入門」 早川幸男 著 日本食糧新聞社 平成9.11.25日版
- 「和菓子」 守安 正 著 毎日新聞社 昭和48.3.30版
- 「和菓子のいのち」春夏編 (株)ニチブン
- 「全集 日本の食文化」全12巻より 第6巻 和菓子・茶・酒 雄山閣出版 平成8.10.20版
- 「西洋菓子彷徨始末」 吉田 菊次郎 朝文社 1984
- 菓子の事典 小林彰夫、村田邦彦 編 朝倉書店 2000