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お菓子の歴史

製菓衛生師全書(1999年版)を基に各書より編集

時代区分西暦歳事年号
上古時代紀元前縄文式文化の頃農耕中心の生活でほしいい、焼米、米の粉、豆の粉のほか、餅や飴などを製す。
神武天皇、大和高尾で水無飴を製す。
大和時代  61甘葛煎(あまづら)、甘草飴を甘味料として用いる。
  71田道間守(たじまもり・菓祖神)が垂仁天皇の命を受けて橘を常世国(註)に求め10年を要しその実を持ち帰ったが、天皇はすでに亡く、その陵前で断食して殉死したとつたえられています。(註)中国の南部からインド方面(神話)
 552搗栗、焼栗、干柿、大豆餅、小豆餅などを用いる。百済から仏像、経論が伝来する。
 609小野妹子が遣隋使として送られ、中国大陸から菓子が伝わる。
 701大宝令により大膳職は餅係を置く。大宝 1年
唐菓子時代 705遣唐使により、唐菓子8種、菓餅14種が伝えられている。慶雲 2年
奈良時代 737但馬国から阿米(飴)が献上される。天平 9年
 738正倉院文書のうち「淡路国正税帳」に大豆餅、小豆餅、煎餅、浮餡餅の名が見える。天平10年
 754唐僧、鑑真が蜂蜜、石蜜、蔗糖、甘蔗をもたらす。勝宝 6年
平安時代 804最澄が唐より砂糖を持ち帰る。延暦23年
 806空海、唐国から煎餅の製法を伝える。大同 1年
 815近江崇福寺僧、永忠は天皇行幸のとき、茶を煎じて奉上、この頃から唐菓子の輸入が増える。弘仁 6年
 857雑餅として大餅(祭祀料)、小餅(吉例用)、薄餅、赤餅、白餅、黒餅などが多く用いられる。天安 1年
 860麦の粉製の「青ざし」が作られる。貞観 2年
 927律令の施行規則として「延喜式」が著され、大膳職の菓子原料に糯糒、栗糒、大豆、小豆、胡麻、味噌、塩、甘葛、栗、薯蕷、梨、桃、柚、油、橘が登場。延長 5年
1005頃「源氏物語」に椿もちひ、粉熟の名がみえる。
1069羹(あつもの)の使用盛んとなる。(48種)延久 1年
点心時代鎌倉時代1191禅宗の臨済宗を開いた栄西上人が宋より帰国、肥前、博多に茶を植える。建久 2年
1192明恵上人、宇治に茶を移植する。建久 3年
1214栄西上人、喫茶養生記を著し、喫茶の風習おこる。茶道の進展に伴いそれに使用する菓子として点心が発達する。羹類以外に麺類も点心として用いられる。主なものはうどん、鶏卵素麺、切麦、葛素麺、水鈍蝶結、きんとん、柳葉麺、桐皮麺、素麺、冷麺など。建保 2年
1241聖一国師、宋より帰国し酒素饅頭を伝える。鎌倉幕府は風流菓子を禁止する。仁治 2年
室町1341林浄因、元より帰化し、饅頭の製法を伝える。興国 2年
1444砂糖が日明貿易の一部となり薬や高貴者に用いられた。文安 1年
1543ポルトガル人が種ヶ島に鉄砲を伝える。天文12年
南蛮菓子時代時代1549フランシスコ・ザビエル布教のため鹿児島に上陸する。このとき、カステラ、ボール、金平糖、有平糖、ビスカウトなどを携行してきた。天文18年
1555茶道盛んになり、点心に羹、麺類の他に餅類の牛皮餅、葛やき餅、葛餅、わらび餅、拘把餅、五茄餅、笹餅、御所様餅、ちまきその他が茶味として用いられる。弘治 1年
1560年代茶道の発展により、葛餅、蕨餅、笹餅、粽が生まれる永禄年間
1569ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが京都二条城で信長にギャマンの壺入りの金米糖を贈る。永禄12年
1571信長が元旦に安土城で将に茶や南蛮菓子を振舞う。元亀 2年
安土桃山1573南蛮菓子の輸入盛んになる。主なものは、カスティラ、パン、ボーロ、金平糖、有平糖、カルメラ、ビスカウト、鶏卵素麺等。天正 1年
1578秀吉が北野で大茶会を催す。このとき、練り羊羮が諸大名に披露される。おこし、米煎餅、きんとん、羊羹、上り餅、みたらし、団子、ちまき、葛餅、わらび餅などが料理から離れる。天正 6年
京菓子・江戸風菓子時代時代1589天草使用羊羹が現れる。天正17年
1592村上等安が肥前名古屋で秀吉にカステーラや南蛮菓子を献上。文禄 1年
江戸時代1610奄美大島で甘蔗が栽培され黒砂糖が初めて作られる。慶長15年
1615明国の船が紀州浦に砂糖を積んで到着する。元和 1年
1623琉球で製糖始まる。元和 9年
1624ポルトガル人が長崎の福砂屋にカステーラの製法を伝える。寛永 1年
1635埼玉草加で、そばきり、もち、かたもちが売り出され、後に塩煎となる。寛永12年
1637京都の菓子司が江戸に牛皮(求肥)の製法を伝える。寛永14年
1640この頃京菓子司が江戸へ下る。寛永17年
1641オランダ屋敷でパンを売る。長崎より丸ボーロが佐賀へ、タルトが松山にそれぞれ伝わる。寛永18年
1658寒天作られる。万治 1年
1662中国より白砂糖の製法を習い琉球に伝える。寛文 1年
1672砂糖の需要が多くなる。寛文12年
1673イギリス船リータン号が長崎でビスケットを注文する。博多の松屋利右衛門が長崎でオランダ人から玉子ソーメンの製法を習う。延宝 1年
1681長崎の松翁軒がカステラを製造販売する。天和 1年
1683菓子と水菓子(果物)とが分立する。京菓子司桔梗屋「菓子目録」作る。天和 3年
1691「原本朝食鑑」刊行される。元禄 4年
1693菓子製法「男重宝記」刊行される。元禄 6年
1727将軍吉宗は甘蔗を浜御殿と吹上園中で栽培し、諸藩に分け、製法技術の伝播につとめる。八僊式料理調理法に五味など書かれる。カステーラ、月餅、ごま餅、かるかん、雲平享保12年
1741江戸向島長命寺で桜餅が作られ、江戸人の人気を得る。寛保 1年
1763「松風」創製される。宝暦13年
1772江戸で大福餅が創製されて流行。安永 1年
1775輸入砂糖の乱用阻止で京都上菓子屋が248軒に制限される。安永 4年
1777
京都に上菓子屋仲間(今でいう製造組合)が創立される。名物番付「富貴地座位」が刊行される。安永 6年
1785砂糖会議所が設立される。天明 5年
1789むだな手間をかけた菓子類が製造禁止となる。寛政 1年
1790越後で透明な水飴が製造される。伏見で心天を用いた練羊羹が製造される。寛政 2年
1792江戸に心天煉羊羹が製造される。寛政 4年
1796氷砂糖が作られ翌年完成する。寛政 8年
1799大阪で「粟おこし」が製造される。寛政11年
1807江戸で寒天を用いた練羊羹完成し、この頃菓子業界盛んとなり、献上菓子、賛祝菓子として練り物、金華糖、みじん棒、かりん糖、鉄砲玉、金つばの全盛時代である。文化 4年
1842江川担庵パンの製造を習う。天保13年
1855蘭方医柴田方庵ビスケット製法習う。安政 2年
洋菓子輸入時代1859横浜にホテル設立され、菓子商池田寛平西洋菓子を作る。安政 6年
1863草野大吉が長崎に西洋料理店開業。文久 3年
1866大賀磯助が長州藩にパン製造補助金を請求した。慶応 2年
1867横浜元町の中川屋嘉兵衛がパンとバター、ビスケット、牛肉を新聞に広告した。慶応 3年
明治時代1868砂糖販売店越前屋が開業。砂糖専門小売店の嚆矢。明治 1年
1868風月堂が薩摩藩に軍用ビスケットを納入した。明治 1年
1869芝に文英堂パン店が開業。翌年銀座に移転「木村屋」と改名明治 2年
1870東京府開墾局でてんさいを試植する。明治 3年
1871英国からてんさい糖苗を北海道へ移植する。ハワイ、香港から安い良品の砂糖の輸入増大する。明治 4年
1872村上光保が明治3年から横浜フランス人サミュエル・ペールに師事して西洋菓子の製法を修得し、宮中大膳職に奉仕した。明治 5年
1873岩倉具視一行はパリのチョコレート工場を視察、須藤時一郎「万宝珍書」刊行し9種のフランス風ケーキの製法を書く。明治 6年
1874風月堂本店でリキュールボンボンを製造する。宝露糖と名付ける。明治 7年
1875米津風月堂で機械を使い本格的なビスケットを製造を開始。明治 8年
1876木村安兵衛、餡パンを発売明治 9年
1879八丈島でバター製造される。明治12年
1884北海道でてんさい糖13万斥が製造される。明治17年
1885菓子税なるものが創設される。対外的配慮から、砂糖に課すべきところを菓子に課された。明治18年
1890第3回内国博覧会に初めて京都の飾り菓子と洋菓子出品する。明治23年
1896廃止運動が実り、菓子税は10年間で撤廃される。この頃から菓子の品質も良くなり輸出増大し始める。明治29年
1897東京神田にミルクホールが開業される。これを契機に全国各地へ広がる。明治30年
1899東京赤坂で森永太一郎キャンデーを作る。(後の森永製菓)明治32年
1900パリ万国大博覧会にカステーラ及び京都の飾り菓子出品する。明治33年
1910横浜元町に「不二家」開店明治43年
1911第1回帝国菓子飴大品評会(後の菓子博)が、東京赤坂三会堂で開催された。明治44年
洋菓子輸入時代大正時代1912第2回帝国菓子飴大品評会が、金沢で開催された。大正 1年
1913森永がミルクキャラメル(一箱20粒入・10銭)を発売。ポケット菓子の嚆矢となり、以降各地でそ製造が行われる。大正 2年
1916東京製菓が設立さる(1924年に明治製菓となる)大正 5年
1916チューインガムの販売会社(りグレー)が創業、全国へ広がる大正 5年
1918チョコレートが初めて国内で製造される(森永)。大正 7年
1919第3回全国菓子飴品評会が、大阪で開催された。大正 8年
1921グリコが創業大正10年
1921第4回全国菓子飴品評会が、広島で開催された。大正10年
1923第5回全国菓子飴品評会が、福岡で開催された。大正12年
1923関東大震災によって洋菓子の技術者が地方に分散し、洋菓子技術が全国に波及。大正12年
1924大竹製菓と東京菓子製菓と合併して明治製菓と改称。大正13年
1925全国菓子業組合連合会創立される。大正14年
洋菓子輸入時代昭和時代1926第6回全国菓子飴品評会が、朝鮮の京城で開催された。昭和 1年
1926東京でシュークリームの中毒が相次ぐ昭和 1年
1926明治製菓がミルクチョコレートを発売昭和 1年
1928第7回全国菓子飴品評会が、岐阜で開催された。昭和 3年
1928警視庁、菓子の着色料、防腐剤使用について指導を強化。昭和 3年
1930大蔵省、商工省に砂糖輸入税軽減を陳情昭和 5年
1931第8回全国菓子飴品評会が、松山で開催された。昭和 6年
1932日本製パン製菓学校(神田区新銀町)より第1回卒業生(30名)昭和 7年
1933第9回全国菓子飴品評会が新潟で開催された。昭和 8年
1935第10回全国菓子大博覧会が、仙台で開催された。(このときから品評会が博覧会と改称)昭和10年
1937菓子生産高 6億5千万円と発表される。昭和12年
1938原料ゴム統制で、チューインガム製造禁止昭和13年
1939第11回全国菓子飴品評会が、大分で開催された。砂糖の公定価格制が実施される。昭和14年
1940菓子の公定価格制が実施される。昭和15年
1941ドロップス、キャラメル、ビスケットが子供用菓子として切符制に。昭和16年
1941太平洋戦争に突入。昭和16年
1941企業の新規開業が許可制になる。昭和16年
1942第1次企業整理行われ、各地で企業の整理統合が進む。物価統制令公布、菓子の製造は不振となる。砂糖は実績による配給となるが1年間で中止される。昭和17年
1942東京で菓子配給切符制が実施される。昭和17年
1943菓子製造に企業整備令が発令され、菓子製造はほとんど中止状態となる。配給制は乳幼児に限定される。軍の納入業者以外は軍需工場に徴用される。昭和18年
1944空襲激化し、各地で戦災を受ける。昭和19年
1945太平洋戦争終結し敗戦となる。昭和20年
菓子大量生産時代昭和時代1946菓子企業は全く停止し、食糧は極度に欠乏、やみ市が出現し、失業者はちまたにあふれる。昭和21年
1946製菓用砂糖の配給が実施され、菓子類の生産が盛んになり始める。昭和21年
1947ロッテ創業昭和22年
1947宝くじの景品にキャラメルが使われ人気に昭和22年
1947進駐軍の影響でチューインガムが流行。代用原料を使ったチューインガムが市場に出回る。昭和22年
1948山崎パン操業昭和23年
1949水飴、ぶどう糖の統制撤廃される。昭和24年
1949東京都宝くじにチョコレートが登場。菓子の統制撤廃運動起る。昭和24年
1950戦後初めての菓子展が、上野松坂屋で開催さる。昭和25年
1950練乳、粉乳統制解除、菓子類価格統制解除される。昭和25年
1950菓子の宣伝が盛んになる昭和25年
1951食品衛生法の改正で菓子製造業従業員の健康診断が義務化昭和26年
1951小豆の統制撤廃される。各地に協同組合、研究所が再興される。昭和26年
1952砂糖の統制配給全廃される。小麦粉の統制廃止される。戦後初の博覧会、第12回全国菓子大博覧会が、横浜で開催された。昭和27年
1953東京高等製菓学校が開校(昭和52年に東京製菓学校と改名)昭和28年
1954第13回全国菓子大博覧会が、京都で開催。この頃から技術研究団体が各地に数多く発生し、品評会開催が活発に。昭和29年
1955京都洋菓子組合が2月13~15日をバレンタイン祭にと全国に呼びかけ昭和30年
1956ぶどう糖使用の運動起こる。昭和31年
1957第14回全国菓子大博覧会が、長崎で開催された。昭和32年
1958まんじゅう、最中の自動包装機完成。和菓子も自動包装の時代へ昭和33年
1960食品衛生法により生菓子の定義改正される。昭和35年
1960日本菓子専門学校が開校昭和35年
1961業界の誇大宣伝と懸賞特売の大規模化で公取委が調査へ昭和36年
1961第15回全国菓子大博覧会が、名古屋で開催された。昭和36年
1962もち米不足で原料高。米菓業界苦境へ。餅米輸入を再開。昭和37年
1963砂糖の自由化が実施される。昭和38年
1964ガット11条国、IMF8条国へ移行し、OECDに加盟した昭和39年
国際化時代昭和時代1965第16回全国菓子大博覧会が、秋田で開催された。昭和40年
1965糖価安定法が成立。砂糖価格キロ30円の引き上げとなる。昭和40年
1966製菓衛生師法施行される。昭和41年
1967初の製菓衛生師が誕生する。(製菓衛生師の資格認定試験実施)昭和42年
1967大手パンメーカーの菓子進出高まる。食品衛生法の改正により食品の表示方法施行される。昭和42年
1968第17回全国菓子大博覧会が、札幌で開催された。昭和43年
1968技術導入自由化が実施される。昭和43年
1969経済界の好況と人手不足の深刻化(中卒女子初任給2万円以上)する。昭和44年
1970食品衛生法改正により食品添加物規制が強化され、表示の義務化へ。昭和45年
1970大手メーカーが本格的にスナック菓子の量産を始め、スナック食品ブームへ昭和45年
19716月チューインガム、9月キャンデー、チョコレート等すべての菓子が自由化された。昭和46年
1973サッカリン使用禁止へ(すでにズルチン、チクロは使用禁止)石油ショック。物価高騰。第18回全国菓子大博覧会が鹿児島で開催された。貿易の自由化は100%となり、あらゆる産業が国際化時代を迎える。チクロ、ズルチンに続いてサッカリンも使用禁止へ。昭和48年
1975和洋菓子パン製造に技能検定試験が実施され、全国に初の1級、2級技能士が誕生する。昭和50年
1977第19回全国菓子大博覧会が、静岡で開催された。昭和52年
1980第1回ホワイトデー開催昭和55年
19812月28日をビスケットの日に決定昭和56年
1984第20回全国菓子大博覧会が、東京で開催された。昭和59年
1984広域114号事件発生。店頭に毒物入りの菓子を置くた等との脅迫で、菓子業界大きな影響を受ける。昭和59年
198511月7日の立冬の日を「あられ、せんべいの日(ウインター・デイ)に決定昭和60年
1986バレンタイン商戦、400億円市場へ昭和61年
平成時代1989第21回全国菓子大博覧会が、松江で開催された。初の官民共催へ。平成 1年
1990夏でも溶けないチョコレートを各社発売平成 2年
1991「ティラミス」菓子が大ブーム平成 3年
1994第22回全国菓子大博覧会が、金沢で開催された。初めて「テーマ館」設置平成 6年
1995食品衛生法が改正され、賞味期限表示制度が発足。平成 7年
1998第23回全国菓子大博覧会が、盛岡で開催された。平成10年
1999製菓衛生師養成校における養成内容の充実が図られる。平成11年
1999「だんご三兄弟」大ブレイク。だんごが売れた。平成11年
2002第24回全国菓子大博覧会が、熊本で開催/次期開催地「姫路」と決定平成14年
2008第25回全国菓子大博覧会・兵庫が、姫路で開催された。入場者92万人平成20年
2013食品表示法公布
第26回全国菓子大博覧会・広島が、広島市で開催された。入場者数807千人
平成25年

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